私の履歴書

福岡市に生まれた。(舞鶴公園にあった病院で生まれたので、今も毎日、生まれた場所を犬と散歩している。)

巨大な団地(100棟まであったし、商店街が二つ。公園も多数。団地内の幼稚園、中央広場にはプールまであった。今思えば絵本にもなりそうな、楽しい団地だったなあ。)で育つ。

3人姉弟の一番上。

特に下の弟とは9歳も年齢が違っていたので、ほとんど乳母のようにかわいがったものだった。

上の弟とは3歳差。ずっと一緒に遊んで過ごした。

母が働いていて(当時はお母さんが働いているのは珍しくて、そんな家の子は家の鍵を首に下げて学校に通っていたので鍵っ子って言われてた。)弟と楽しく遊びながらお留守番。留守家庭とかもなかったしね。

大きくなるにつれ、それぞれの個性が出てくるので一緒に過ごすことはなくなったけど。(弟たちはそれぞれ野球とミニバスケットに燃える日々に。私は、ひたすらインドア派として)

本を読むことと、ピアノを弾くこと、歌うことが大好きで、図書室か音楽室が私の居場所。(小学校も中学校も)

とにかく、超、超、超運動音痴で、

かけっこも、ドッジボールも、バドミントンも、鬼ごっこも、かくれんぼも、すべて、みそっかす。

相手にならないから、

「みかちゃんは、居てもいいけど鬼にもならないようにしようね〜」なんてルールができちゃったくらい。

いじめとも違う。だって一緒に走り回って楽しかったもん。

今思うと、本当に凸凹凸凹していたんだよね〜。

絵を書いたら、何を書いているのかわからないし、工作しても失敗ばっかり。

家庭科のミシンも。直線ができずにどうしてもぐねぐねになるし。

でも、国語とか大好きで、作文なんかもよくみんなの前で読んだりしていた。音楽の時間が楽しみで楽しみで。

苦手と得意、好きと嫌いのバランスがうまくとれていたから、特に嫌な思い出もなく過ごしたんだろうと今思う。

中学校3年生の時に、父の転勤で熊本に転校。

その後、高校、大学と熊本で過ごした。

中3で転勤って(それも1月!!!)けっこう悲しくて、受験もあって不安だし。一番苦しかったなあ。今だから言うけど、もしもし電話に初めて(人生で二度、もう一回は娘の不登園のころ。)電話したのも、このころ。

でも、そのおかげで熊本にもたくさんの友人ができて、特に高校はもう楽しくって仕方なかった。

熊本って大好き。

ちょっと走ると、山あり、海あり。阿蘇も、天草の海も大好き。

大学生の頃は、よくみんなでドライブしたものだった。

今はお墓まいりに年に数回行くくらいになってしまったけど。

手元に写真がこれしかなくて。

大学生のころ、確かバイトの応募に添えた写真。ざ、昭和

大学卒業後教師となる

それでもやっぱり福岡の街が懐かしくて、教員採用試験は福岡市を受験。合格。(採用試験が終わったよ〜って友達と行ったパーティーで旦那と出会ってしまい、こんなことなら熊本受けておけばよかったとその後後悔する)

卒業して行った先の小学校では5年生を担任。

家庭訪問では子供達に案内してもらって行ったら、

「まあ、誰が先生かわからなかったわ」と言われるくらい。

廊下を子供達と一緒になっておしゃべりしながら歩いていたら、

「廊下は静かに歩きなさい!」って怒られてしまったり。

メダカの学校って言われてたよ。

「誰が生徒か先生か〜」

2年間精一杯の日々を過ごして、

卒業まで2年間受け持ち、

卒業式の二日後に結婚式。

その後、退職して、熊本に戻りました。

この32人の唯一の担任した子供達から学んだことが今の私の基礎となる。

子育て楽しくって、というか、長女が母離れできないタイプで。その後10年専業主婦。

途中5年間のアメリカ生活含む。近所の日本人の子供達と週末日本語学校したりも。現地のコーラス隊にも入ってみたり。

やっぱり何かやりたい!と、自宅で英語教室はじめた!

帰国して、末っ子も小学校に入学して、やっぱり何か私もお仕事したいなあ、と思い、でも、すでに不登校で家で過ごしていた娘がいたため、在宅で出来ること、

いくつかの英語教室の説明会に行って、結局選んだのは、講習に子連れでもいいと言われたところ。

この英語教室、コニュニケーションのツールとしての英語を重視しているので、絵本を使って表現したり、野外活動を通して子供達のコニュニケーション力を育てたりと、ちょっと変わっていた。

私は、今では想像つかないかもしれないけど、キャンプしたり、バーベキューしたり、子供達と外を飛び回っていた。

英語でお話を聞いて、お話の中に入り込み英語を味わいながらmそれを表現して腑に落とす。こんな言語習得って本当に心も一緒に育てるから素敵だと今でも大好きなメソッド。

子供達のすてきなキラキラとした感性に触れる日々は私にとって宝物。

発達障害と言われる子供達の輝く無限の可能性に気づき、「おもちゃばこ」作る。

娘が発達障害だとわかったのが10歳のころ。

発達障害の子供達と出会うことも増えて、

大変だけど、それでも、やっぱり、キラッと光る子供達の魅力に惹かれて、

自閉症応援「おもちゃばこ」という任意団体を設立。

社会の準備が整っていないことに気づいて、成人向けに方向転換。

私の子供達が育ったころより、学童期の支援とか理解とかって、すごく進んできている。

でも、あなたはあなたのままでいいんだよ、って自己肯定感育みながら育てても、社会の中には、まだその考え方は浸透していない。

社会が凸凹を凸凹のまま受け止められる柔らかなものになったら、どんなにかたくさんの人が安心して暮らし、自分の能力を120パーセント活かして、こころ豊かに暮らしていけることだろう。

Togatherland創ろう!

って、法人化したけど、

今のところ、まだまだ試行錯誤、前途多難な感じ。

それでも、とにかく思いつくままにうごくことで、見えてきたことたくさんある。

凸凹が凸凹のままでいいと思えた時、本人の可能性が無限に開き始める。

恐怖や不安が人の行動や能力を遮っていくことが多いから、

心から安心したときに、人は潜在能力まで発揮できるんだよね。

さらに、「相乗共創」って呼んでるんだけど

違っていること、はお互いにとって、新しい価値観、新しいことを創り出すきっかけとなる。それは、お互い。

相乗共創が始まったら、もう世の中はどんどん変わっていくと思う。もっと豊かで味わい深い人生を過ごすために、大事なきっかけとなる。

相乗共創に必要なステップを、今後はもっともっと言語化、見える化していきたいなあ。

先に道がなくて、暗中模索がずっと続いているんだけど、

子供達が身でもって教えてくれたこと、

よっし、がんばろ。