発達障害について②居場所は作るものなのか

1年目は障害があってもなくても一緒に過ごす居場所づくりをしました

障害があっても、小さな頃から一緒に過ごすと、それが個性となり、障害とは感じなくなることを、英語教室で実感していました。

私のしていた英語教室は、赤ちゃんから大学生までが一緒に縦長の仲間で活動するのです。同じ教室の仲間は何年もともに過ごし、兄弟のように大きく育っていきます。

小学校に上がった時、発達障害の子だけが違うクラスになった時(支援学級に入ったのです。)
「どうして〇〇ちゃんだけクラスが違うの?」と言ったそうです。
子供達には障害は個性としか映らないのです。

そこで、1年目は、障害がある子もない子も一緒に、

ただただ遊ぶためだけの場所と時間を子供達に用意しました。

そこでどう過ごすかは本人の自由。

大人はできるだけ手も声も出さない。

好きに過ごせる場所。

ボランティアさんも、支援するというよりは、一緒に楽しみながら過ごす。という気持ちで参加してもらいました。

その当時は、3歳の入園前の子から、20歳の成人までが入り乱れて過ごしていました。

大きな子にとっても、ちびっこにとっても、それぞれに良い時間となっているように思えました。

2年目はお母さんたちの居場所を作りました

そうしているうちに、子育て中のお母さんたちは、障害があってもなくても、悩みや苦しみがたくさんあることがわかりました。

子供達の前では言えない悩みを話す場があったら良いな、ということで、

お母さんたちの居場所を作りました。

はじめは、会場を借りて、親の会、という名で月に一度の集まりから始まりました。

次第に、学ぶ会もしたいね、とか、趣味の会もしたいね、という話がj広がり、

助成金をいただいて、場所を整え、備品も揃え

「木もれ日カフェ」と名付けました。

「木もれ日カフェ」は、森の中にいるようなリラックスした気持ちになってもらい、そして、そこからも、木もれ日の光のように、未来に小さな光をもらって帰ってほしい、との願いを込めてつけました。

美味しいハーブティーや身体に優しいお菓子を準備したりして、私たちもこれから始まる日々に胸を膨らませていました。

本当の居場所とは、場所ではなかった。
居場所は作るものではなかった。

しかし、子供達の遊びの広場も、お母さん達の「木もれ日カフェ」も、

思ったようには人も増えず、本当に必要なものではない気がしてきました。

居場所とは、場所なんだろうか。

その人が心地よく、自分らしく、リラックスして、安心していて、安寧で、、、、、そんな状態で過ごせる場所が居場所。

場所と限定すると、そこに行かないといけない。

でも、行くのには時間や労力や、いろんなことが揃わないと行くことができない。

さらに、人それぞれの心地よさがあるのだろうから、自分にあった場所でなければ居場所にはならない。

極端なこと言えば、一人一人求めている場所は違うのだから、もし、居場所を作るとすれば、一人一人にオーダーメイドのものが必要になる。

とすると、本当に必要なのは、場所ではなく、

そのような状態なのではないか。

人が心地よく、自分らしく、リラックスして、安心で、安寧な、そんな状態にあることが大切なのではないか。

そして、さらには、それは、

人から与えられるものではなく、

自分で作るもの。

自然と生まれてくるもの。

もし、そんな場所があるとすれば、

居場所は、作るものではなく、なるもの。

気づいたら、そこが居場所となっているもの、なのではないか。

そう気づいた時、私はおもちゃばこの舵を大きく切りました。

向かう方向を変えてみようと思ったのです。

では、

どうやったら、そのような状態になるのか。

また、

自分から、なれるのか。

それが私の次なる探求となりました。

また、

自然と居場所になるのは、それぞれが好きなことをしている時、そんな仲間ではないのか、とも思い、

大好きな音楽の活動を中心にただただ自分が楽しいと思える活動をしていくことにしました。

そこから何かが生まれるかもしれないと。

そして、今、何かが生まれてきている気配がしています。