あたりまえがなくなった時

あたりまえに守られていた自分

「あたりまえでしょ」

あたりまえってなんだろう。

改めて聞かれると何があたりまえなんだかわからない。

でも、あたりまえ、って、なくなってみて、初めて気づく。

あたりまえ、って言葉に守られていたことに。

コロナであたりまえに気づいた人

って多いと思う。

あたりまえの日々。

あたりまえにできていたことができない。

あたりまえに思っていたことが、あたりまえではなくなる。

学校があるってあたりまえ。

公園であそぶってあたりまえ。

みんなで一緒にご飯食べて笑って歌って楽しんで。

そんなのあたりまえにある。

どれほどありがたいことか、よくわかった。

そして、

あたりまえ、ってなんだろう。

そんな思いも持っただろう。

一体、あたりまえってなんなのか。

被爆の語り部の山口さんもよく言っていた

「普通に学校に行ったら自分の席があって、お友達がいて、そんなあたりまえのことがどれほど大事なことか」

本当だ。

失われて初めてわかる大事なこと。

だからこそ、戦後、人々は大事なものを大切に伝えながら今の時代を築いてきてくれたのだと思う。

あたりまえにあることへの感謝。

そんな気持ちを持った人もたくさんいただろう。

あたりまえがなくなる経験をしていた私

幼稚園に行かない。

学校にも行かない。

同じものしか食べない。

同じものしか着ない。

ことごとく私の「あたりまえ」を取り去ってくれたのが、

発達障害の娘だった。

今まで私があたりまえと思っていたことが、彼女にとってはあたりまえではない。

一つ一つにぶつかりながらも25年間の付き合いでわかったことは、

あたりまえって一人一人ちがっていること

そして、どちらの「あたりまえ」も大事なんだということ。

アメリカで知った「あたりまえ」ってない。

アメリカで暮らしていた頃、

私の価値観は根こそぎもぎ取られた。

あたりまえのことが実はあたりまえではなかったってことに。

みんなみんな、それぞれの国のあたりまえを生きていることに。

ニューノーマルの時代ではきっと「あたりまえ」も「多様」

世界中のだれも経験したことのないコロナとの共生の日々が始まる。

障害のあるなしに関わらず、みんな人と違った自分を感じただろう。

人って、本当はみんな違っている。でも、同時にみんな同じ。

それが多様性だと思っている。

だから、

きっと、「あたりまえ」も「多様」になっていくだろう。

マスク着用。

不要不急。

一人一人違っているだろう。

「それぞれのあたりまえ」を尊重しあいながら、

みんな同じいのち。

じゃあどうやって安心安全に暮らそうか、って

新しい方法を見つけていこう。